古稀日記 6月27日 【a week gone by】

先週火曜日のウクライナのオンライン授業のあと古稀日記を書こうと思い、うだうだ考えているうちに1週間経ってしまいました。書きたいことはいつもあるのだけれど、世界が不幸で溢れているのに、ちっぽけな自分の考えを書き表すことに意味があるのだろうかと逡巡してしまうのでした。

若い友人がおもしろかったと紹介してくれた『他者の靴を履く アナーキックエンパシーのすすめ』を読み始めました。集中力低下が著しいした古稀女子ですので、少しずつゆっくりじっくり読んでいます。(kidle版)著者はブレイディ・みかこ氏。ブレイディ氏の本は「ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー」に始まり、威勢の良い異文化評を数冊読んだのですが、エンパシーについて書いているとは知らなかった。最近、世の中のことを知らなすぎます。

「他者の靴を履く」のもとはin someone’s shoesという英語表現。ずっと前に「In Her Shoes」という小説を読んで、タイトルの表現と意味を知りました。す〜っと腑に落ちて自分の言葉になる表現だったので、その後英語で話す機会に、Put yourself in someone’s shoes.のように何度も使ったと思います。「誰かの身になって」といえば一番近いかな。

しかし、エンパシーとはなんぞや、という章を読んでいて、「身になる」では捉えきれないことがぼんやりとわかってきました。

エンパシー:感情移入。人の気持ちを思いやること。(シンパシーは他人と感情を共有することをいうが、エンパシーは他人と自分を同一視することなく、他人の心情をくむことをさす。)

私はエンパシーの容量が大きい人間だと思います。しかし、時としてシンパシーの領域までいっているかもしれません。(それは相手に迷惑だわ。)エンパシーは持って生まれた資質ではなく、成長過程で育まれる能力であるという見方があると読み、確かに私は子どもの頃は人の気持ちなど全然わからない、わかろうともしない、わがまま100%地団駄踏みわっぱだったと思い出しました。それはもちろん半世紀以上も前のことですが、現在は友人に不幸があると知れば、いてもたってもいられずに飛んで行って手を握らずにはいられません。それは、自分が親を亡くした時に友人たちがかけてくれた愛ある言葉や行動で培われたと思います。

ということは、人の気持ちを思いやる能力は、社会経験で養われる部分が大きいのでしょうか?しかし、まだ幼児で社会経験が少ないのに、人を思いやる気持ちを大きく持っている子どももいるので、それは生まれ持った傾向を家庭環境が育てるのでしょうか。エンパシーの理解には、脳科学も必須らしい。

さて、先週読了した「ウクライナから愛をこめて」と、読みかけの「国境を超えたウクライナ人」は、ウクライナ人著者オリガ・ホメンコ氏が日本語で執筆した珠玉です。

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